引導(いんどう) 住職 指田隆行
葬儀の多様化
ここ数年私たちの周辺で、一人の人間の死というものをどのように送り出すか、つまり葬儀、葬送のスタイルが実に様々なかたちで変容していることを見聞いたします。家族葬、直葬、密葬という“くくり”の中には出来るだけお金をかけず、人間関係の接触(お寺や葬儀社を含め)を避け、かつその故人の遺志を尊重したいというような背景のある中での選択なのでしょうか。 核家族化が進み、共同体が崩壊し、日本企業の制度・文化の変化とともに会社における人間関係も希薄化し、社会的な死ではなく、どこまでも個人的な死が問題になってきたともいえるのでしょう。
本当に「葬式は、要らない」のか?
今から2年ほど前、島田裕巳という宗教学者が「葬式は、要らない」という本を出して年間のベストセラーの3位を飾りました。この書名から見ると葬式不要を論じているように受け取られますが、むしろ、葬儀の意味を根本から問い直そう、という展開だったといえます。一部引用しますと、「一人の人間が生きたということは、さまざまな人間と関係を結んだということである。葬式にはその関係を再確認する機能がある。……そんな葬式なら誰もがあげてみたいと思うに違いない」 と、ここだけ見ると葬式というひとつの儀式やしきたりが問題なのではなく、その人がどういう生涯を、またその生きてきた価値観をどこに置いてきたのかを見ていく大事な場面なのだという受け止めめ方も出来そうです。
決めておくべきこと
しかし、その生涯にわたり大事にしてきた価値観や信念というものをちゃんと生きている間に発信して、それをきちんと伝えておかなければ、遺された家族は世間の風潮に順じてそれこそ葬式不要、火葬場直行、お骨だけもって帰宅と簡単に済ませておしまいということになってしまいます。
我々佛立信者として、ご信心を大切にしてきたおかげを心から離さず、日々御宝前にお給仕し、ご奉公に身・口・意の三業を使い過ごしてきたその命をひとまず終えて、寂光浄土に旅立とうという時に、肝心の御題目の御本尊が安置されもせず、誰一人として故人を支えてくれてきた御題目を唱えて送ってくれないとしたならば、こんな不幸はありません。
「この信心は私の代で終わり」と、閂(かんぬき)を入れてしまって、信者として最後に一番立派な現証御利益(臨終の相)を見てもらおうという最高の場面を大切に考えられないというのであれば、いったい自分のしてきたご信心とは何であったのでありましょうか。はなはだ疑問と言わざるを得ません。
最高の引導とは
「引導を渡す」という言葉を聞いたことがあるでしょう。広辞苑で引導と調べると、「迷っている衆生を導いて仏道に入らせること。また死者が済度するため、葬儀のとき導師が棺前に立ち転迷開悟(てんめいかいご)の法語を説くこと」とあります。しかし本人が臨終してもう善根功徳を積めないまま迷っている状態だというのに、なんとか無理やり仏道に入らせるというのも因果の道理に反して、なんかちょっとずるい感じがします。
我々佛立信者が生前唱え重ねてきた御題目があるからこそ、臨終のときにはその口唱の功徳で御題目につき従って御本尊という寂光浄土につながる『窓』から参詣させていただくことが出来るのです。その時の引導は葬儀の導師や参詣者の御題目以外にはないのだということを知りましょう。
御教歌
誰にても信者の葬の引導は 御題目にしくものはなし